西日本各地の災害に心痛む毎日、今こそ苦しんでいる方々と共に頑張ろうと心を一つにする時です。改めて皆様にお伝えしたいと思い、聖書の言葉からお話をしたいと思います。
大学1年生の時、私はハンドベルクワイアーを設立するため、同級生や、先輩方と一緒に大学、チャペルへの働きかけを行い、1990年6月設立時に副代表として活動をスタートしました。それから長い年月、チャプレンや大学の関係者、OBOG会とクワイアーを応援してきたおかげで、素晴らしい経験をさせて頂きました。
私がハンドベルと出会ったのは立教女学院中学の時です。チャペルでの礼拝奉仕、素敵な音色に憧れました。でも、中学に入学したばかりの頃の私はスポーツ大好き少女で、水泳部に所属していました。皆さんよくご存知、元フジテレビアナウンサーの中村江里子さんが当時の中学水泳部の部長で、3年間、中村先輩と同じバック(背泳ぎ)を個人種目として練習に励んでおりました。
13歳の私から見ても、ショートカットで大人っぽい美少女だった中村さんや、優しい先輩方のご指導で、日々練習を頑張っていました。しかし、都大会へ進む友人とは違って、杉並区大会レベルの私は限界を感じ、高校からはハンドベルクワイアーに入部する事にしました。
ハンドベルはその楽器の特性から、「協調性」を必要とするもので、個人競技の水泳とは全く異なる体験でした。演奏者一人一人がそれぞれ別の音を担い、それらが調和する事で全体の音楽が完成します。これは一人として欠けてはならないという新約聖書(コリントの信徒への手紙第1章12節から)に記された聖句を実践しています。
高校時代は音楽経験者がほとんどでしたので、練習はスムーズでしたが、大学創部当時は、不揃いなメンバーで、ハンドベルを初めて演奏するメンバーばかりでした。時々、演奏が思うようにできずに苛立つことや、ケンカをすることもありました。でも、みんなが心を一つにして、素晴らしい演奏を奏でることができた時、それは何よりも心踊る出来事であり、この経験は自分を振り返る基準となっています。
~新約聖書(コリントの信徒への手紙第1章12節から)~
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。(中略)体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部ではなくなるでしょうか。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで体の一部ではなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか?もし全体が耳だったら、どこでにおいを嗅ぎますか。そこで神は、ご自身の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分に成ってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中ではほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えの良い部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。(以上、新約聖書 新共同訳から抜粋)
皆、様々な形で社会と関わっています。そして、誰一人として同じ人はいません。それは、私たちは何か大切なことに気付いたり、見たりするために違っているのです。
また、私たちは愚かで、自分に何か災いが起きると、つい相手を責めたくなります。それは人としては、当然に思える場合であってもいけないことです。今こそ共に前へ歩んで行くことが大切です。